モラトリアムをこじらせて、自転車で日本一周した話 vol.1

大学生や高校生の間で流行っている「エモい」という言葉がある。ときたまSNSのタイムラインに流れてくる、その言葉の意味がいまいち分からなくて、Googleで調べてみると、「なんとなく寂しい・悲しい気持ちのこと」なのだと知れた。しかし、どうにもしっくりこない。なんとなくだけれど、調べて出てきた意味以外にも、「エモい」という言葉には他の意味があるように思えた。

そんなこんなで、”「エモい」という言葉がわからない。”とツイートした後、それを見た同郷の友達と話す機会があり、ビールやワインをちゃんぽんしながら「エモいとはなんぞや?」と話することがあった。その結果、この言葉は、「こそばゆくなる思い出に根付いた感情」なのだということになって、思わずヒザを打ってしまった。

誰にでも青臭い思い出や、若い頃の失敗談にも似た思い出があると思う。現在の自分から当時の自分を振り返ってみると、とことん救えないヤツだと思う。肩に力が入って、地に足がついていなくて、僕の場合は、それを思い出すと、こそばゆいような、そっと蓋をしておきたくなるような感情になってしまう。

しかしながら、その当時の自分がいたからこそ今の自分がいるわけで……。恥ずかしいような応援したくなるような、そんな思い出と、そこに発生する複雑な感情を「エモい」というのだろう。

僕にとってのそれは、自転車日本一周旅行の思い出だ。

モラトリアムと共に走り抜けた、とっておきのエモさ

22歳、大学を卒業した年の春に、同級生たちが新卒生として企業に就職していく中、僕は自転車に乗って全国を周り、公園や橋の下にテントを張って野宿を繰り返していた。

「なぜ旅に出たのですか?」と聞かれるたび、「死ぬまでにあれをやっておけばよかったと後悔しないようにしたい。そう思って、憧れだった自転車旅行に出ることにしました」と鼻息荒く説明してはいたものの、その理由すらすでに青臭い。

就職活動に失敗して旅に出たあの期間を考えてみると、やはり、大学から続くモラトリアムの延長だったように思う。

会社員として働くことに対する反発や恐れと、やりたいことができている開放感。新卒生として働く同級生に対する、後ろめたさや優越感がまぜこぜになった複雑な心境の中、僕は毎日ペダルを漕いで、地図を見て行き先を決め、ハンドルを切っていたのだ。

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無期限のつもりで東京を出発して、北海道から沖縄まで、ほぼすべての都道府県を巡った旅は1年半に及んだ。最終的な走行距離は1万kmをゆうに超え、時にはその土地で仕事をして旅費を稼いだり、時には同じ自転車旅行者と一緒に走ることもあった。

その旅の中で、おそらく僕は少しだけたくましくなったり、ゼロに近かった自信も少しだけ身につけることができた。だから、当時この選択をした自分にはよくやったと言いたい。言いたいけれど、同時に「もうちょい別の方法もあったんじゃないの?」と言いたくもなる。

とはいえ、自転車日本一周を終えてからも、ユーラシア大陸を輪行したり、自転車屋に勤めたりと、自転車は僕の人生に欠かせないキーアイテムになった。パニアバックを4つ積んで、GIANTの自転車で全国を駆け回った毎日は、間違いなく、僕の人生の方向性を変えてしまったのだ。

寒くて眠れない、はじめての野宿

出発初日の夜、テントの幌をめくって上を見あげると、ライトアップされた小田原城が見えた。一日中走って疲れた体で、僕はそれを誇らしげに見上げていたと思う。

出発初日は、ひとまず東京から京都まで走ろうと考えて、池袋から東京都心を抜け、湘南を通り、小田原まで走った。桜が満開の学校を見て興奮したり、すぐ脇を走り去る大型トラックに肝を冷やしながら走った距離は87.6km。僕はそれまで40km前後の中距離しか走ったことがなかったけれど、意外と体は動くものだ。

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初めての長距離を走り、満足感に包まれたその夜、駐車場の隅に張ったテントの中、ホームセンターで買った3000円の安い寝袋にくるまり、僕はこう思っていた。

「寒い……」

今まで、きちんと屋根と壁と床があるところにしか寝たことがなかった僕は、春先とはいえ、夜になると野外は寒いということを知らなかった。地面には銀マットを敷いていたけれど、今、同じような装備で野宿をしようとする若者を見つけたら迷わずこう言うだろう、「風邪ひくぞ」と。そしてあったか〜い缶コーヒーを差し入れて、こう付け加えるだろう、「もっといいマット買え」と。

冬場ではないとタカをくくっていたけれど、まだ4月初旬。テントの外の気温は10度前後だったと思う。結局この日はあまり眠れなかった。

しかし、新米の自転車旅行者に対する洗礼は、翌日の箱根越えでさらに続くことになる。

新米旅人への洗礼、箱根峠を超える

翌朝、日に照らされたテントの中、蒸し暑さで目が覚めた。そして、まだ横たわったままの体のそこらじゅうが筋肉痛で痛い。ひざ、ふともも、二の腕と腰、それに背中。痛みで腰を曲げ、たどたどしくテントを畳む最中の僕は、おじいちゃんのような姿勢と挙動だったと思う。

筋肉痛に悩まされ、その日に超えたのは東海道の難所、箱根峠。小田原から芦ノ湖までは約20kmで、最高地点は874m。昔から東海道を行き来する人達に「箱根の山は天下の険」と呼ばれ、厳しい勾配で旅人を苦しめていたという。

小田原から箱根湯本の駅を過ぎ、峠を登り始めると、最初は緩やかな坂道が続く。この時点ですでにキツい。ギアを一番軽いものにして漕ぎ続けたけれど、筋肉痛の痛みと重なり、思うように進まない状態が続いていた。

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箱根の峠は蛇行した急勾配の道が続いている。息が切れて自転車を押して歩き、また自転車に乗って少し漕いで、を繰り返していたけれど、とうとう限界が来て、自転車を押して登ることを選んだ。

荷物の総重量は20kgオーバーだったと思う。当時は長期旅行のノウハウもなかったから、荷物にも無駄が多かったのだ。こんなことならもう少し荷物を減らしてくればよかったと思ったけれど、後悔先に立たず。汗だくになりながら500m登っては休んでを繰り返しながら頂上を目指したけれど、登っても登っても山頂は見えない。

腕や太ももが痛む、ひざも痛い、息がきれる。汗でびしょびしょになったTシャツは標高が上がるにつれて冷えていった。頭の中にはなぜか”天城越え”が流れていて、「あな〜たと〜超え〜たい、あまぎぃ〜ごぉえ〜」とエンドレスにリピート。たしかに超えたい、けれどここは箱根だ。

ぜいぜいと息を切らしながら歩く僕の脇を、何台もの自動車が軽快に登っていく。その姿を恨めしい目で追っかけた。なんでこんな罰ゲームみたいなことしてるんだろう、と考えたけれど、全部自分で選んだことだから、ほんとにどうしようもない。

結局自転車を押しながら歩いた距離は15kmくらいになっただろうか。国道1号線の最高点に着くまで3時間はかかり、芦ノ湖に着いた時には午後2時を過ぎていた。

しかし、そこからが最高だった。芦ノ湖近くの樹齢100年はゆうに超えている杉並木にため息をつき、道の駅で、ワンボックスで日本を旅するおじいさんから山菜の味噌漬けの差し入れをもらい、そして三島への下り坂。

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開けた国道から見下ろす三島の街と、その先に見える海は、少し傾いた日に照らされて輝いていた。頬を風が流れ、登りの苦労をたたえるように軽快に下っていく自転車。「箱根ざまぁみろ!」、そんなアホなことを思いながら、その日は焼津まで走って公園で野宿することになった。

箱根を超えて京都へ

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その後、実家のある浜松を通り、名古屋、岐阜、滋賀と走った僕は京都に到着することになる。

実家で寝袋とマットを新調し、快適な寝床を確保して、岐阜の大垣でホームシックにかかってテントの中で泣き、滋賀で初めての鮒ずしの臭いに撃沈したりと、どたばたと旅は続いていったけれど、そのたびに少しずつたくましくなっていく自分を実感できた。

京都に到着したのは旅を始めてから16日目の昼。ここで、将来働くことになる自転車屋さんと出会うことになるのだけれど、それはまた次のお話。

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WRITTEN BYスズキ ガク

1986年生まれのライター・編集ディレクター・元自転車屋の店員/ 大学を卒業後、自転車日本一周と、ユーラシア大陸輪行旅行を行う。 編集ディレクターとしての担当媒体は「未来住まい方会議 by YADOKARI

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