「ジロ・デ・イタリア Giro d’Italia」ってどんなレース?ジャーナリストが徹底用語解説
毎年、5月にイタリアで開催される約20日間のステージレース。ツール・ド・フランス、ブエルタ・ア・エスパーニャとならんで、「3大グランツール」に数えられる。主催はイタリアを代表するスポーツ紙「ガゼッタ・デッロ・スポルト」を発行するメディアグループRCSのグループ会社・RCSスポルト社。
リーダージャージは「マリア・ローザ」と呼ばれるピンク色のもの。これはガゼッタ・デッロ・スポルトの紙面の色に由来し、ツール・ド・フランスのマイヨ・ジョーヌ(イエロー・ジャージ)とならんで最も有名なリーダージャージである。そのほかに、ツール・ド・フランスと同じく、ポイント賞ジャージ、山岳賞ジャージ、新人賞ジャージなどがある。
ところで、「ジロ・デ・イタリア」という表記は日本独特なもので、Giro d’Italiaは「ジーロ・ディターリア」という発音に近い。しかし、これでは「イタリア」という語感がなくなってしまので、ジロ・デ・イタリアと表記されるようになったのだろう。しかし、d’Italiaというのはdi Italiaが母音の連続を避けるために短くなったものだから、分解して発音するなら「ジロ・ディ・イタリア」が正しいだろう。そもそも、イタリア語に「デ」と発音する前置詞は存在しない。
ジロ・デ・イタリアの第1回大会は、ツール・ド・フランスに遅れること6年の1909年で、途中第一次世界大戦、第二次世界大戦による中断をはさんで、2017年の今年、ついに100回目を迎える。最多優勝者はイタリアのアルフレード・ビンダ(1925、 1927、1928、1929、 1933年)、同じくイタリアのファウスト・コッピ(1940、1947、1949、1952、1953年)、ベルギーのエディ・メルクス(1968、1970、1972、1973、1974年)で、それぞれ5回の総合優勝を誇る。
ツール・ド・フランスと比較すると、勾配の厳しい山岳ステージの比率が高く、登りを得意とするクライマーが活躍する傾向にある。近年の優勝者では、2001、2003年のジルベルト・シモーニ(イタリア)や2006年のミケーレ・スカルポーニ(イタリア)、2014年のナイロ・キンタナ(コロンビア)などがその代表例だ。
一方で、クライマータイプながらツール・ド・フランスでも勝っている選手も多く、近年では2008、2015年のアルベルト・コンタドール(スペイン)や2013、2016年のヴィンチェンツォ・ニーバリ(イタリア)などが、その代表的な例である。中でも、1998年に優勝したマルコ・パンターニ(イタリア)は、同じ年にジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスの両方で優勝する「ダブルツール」を達成した最後の選手でもある。
またジロ・デ・イタリアは、総合優勝者に占める自国イタリアの選手の割合が圧倒的に高いのが特徴だ。イタリア以外の選手が初めて総合優勝したのは1950年であり、近年でも1997年から2007年までずっとイタリア人選手が優勝し続けた。これは、1985年のベルナール・イノー(フランス)以来、ずっとフランス人選手の総合優勝がないツール・ド・フランスと好対照と言うことができるだろう。
ジロ・デ・イタリアに出場した日本人選手は、これまでに9人いる。1990年に日本人として初めてジロを走った市川雅敏は、個人総合50位で完走したが、これは現在に至るまで個人総合の日本人最高位である(1993年にも出場したが、そのときはリタイアに終わっている)。その後、今中大介(1995年)、野寺秀徳(2001、2001年)、新城幸也(2010、2014年)、別府史之(2011、2012、2014、2015年)、石橋学(2015年)、山本元喜(2016年)が出場し、野寺は2002年に完走、新城と別府は出場したすべてのジロを完走、山本も完走を果たしている。
2017年のジロ・デ・イタリアは、優勝候補の一角であるファビオ・アル(イタリア、アスタナ)の出身地サルデーニャ島がスタート地に選ばれている。しかし、当のアルは体調不良により不参加。代わってアスタナのエースを務めるはずだったミケーレ・スカルポーニ(イタリア、アスタナ)も4月22日に交通事故により亡くなってしまうというショッキングなニュースもあった。
サルデーニャ島からシシリア島を経てイタリア本土に渡ったジロは、いつもの通りイタリア南部は比較的あっさりと北上した後、ドロミテ山塊を中心とした北部で本格的な決戦を迎える。自転車競技の人気が高いイタリアでも、南部に比べて圧倒的に北部の方が自転車競技の人気が高いからだ。最終ゴール地はミラノである。