九州で自転車とコーヒーを考える Vol.1
コーヒーのない生活なんて、考えられない
九州でコーヒー焙煎を営む自転車乗りの江口啓太郎です。
若き日に建築家を志していてプレゼンテーションのためにも何か接客業を経験したいと思い選んだのが外資系コーヒーショップでのアルバイトだった。それが今ではスペシャルティコーヒーと呼ばれるより高品質で美味しいコーヒーの焙煎を生業とするようになってしまった。
自転車に乗り始めたのもそう。都市交通の将来の在り方として自転車のことを考えていたらいつの間にかスネ毛のないサイクリストになっていた。
子どもの頃いつか東京に住むのかな?と思っていたらこの36年間ずっと九州に住み続けている。別に地元なんて好きじゃないけど自分のまわりだけでも楽しく暮らせる環境ができていけばいいなと思いながら日々生活している。そう、コーヒーと自転車がない生活なんて、僕にはもはや考えられないのだ。
ライドの途中の一杯の魅力とは
カフェまたはコーヒーショップを終着点として、もしくは通過点としてライドのプランを練る人は少なくないだろう。コーヒーには大まかに言ってしまえば2つの作用があって、それは「高揚」そして「安息」の2つ。ライドの前後・途中に香りで癒し、カフェインで疲れた体をほぐしさらに活力を与える。ホビーライダーでもストイックなサイクリストでもボトルに入った水やスポーツドリンクだけでは得ることのできない魅力がここにある。効能としてのコーヒーとサイクリングの親和性はこういったところだろうか。
もしかしたら一杯のコーヒーには”神”が宿るのかもしれない
ここからは科学的というよりもむしろ私的な考察としてコーヒーとサイクリングの共通点を挙げてみたい。まず結論から言ってしまうと文明の進む道としてサイクリングもコーヒーも決して合理的ではない事象だと思う。つまりインターネットやスマートフォンの普及によってあらゆるものがスピードアップを求められる時代にあって人力で漕ぐ自転車とほぼカロリーのないコーヒーは合理性、生産性という点において時代に逆行している。
そもそも私たちが趣味としてロードバイクを買った理由はどいうったものだろう。
通勤の足に。ダイエットや健康のために。プロサイクリストに憧れて。それは人それぞれだろう。ところがサイクリングが長く続いている人にとって続いているどころか、むしろなくてはならない存在になってしまったのは何故なんだろう。僕自身の回答は「忘却」だと思う。みんなの賛同は得られないかもしれないけれどきっと一部の人には同意してもらえるんじゃないだろうか。日常生活から離れ、汗をかき、風を肌で感じて得られるものは爽快感だ。仕事のストレス、人間関係といった複雑なものを忘れさせてくれるのがサイクリングではないか。
一方、コーヒーは自然のものであるため、その歴史は人工物である自転車に比べ長い。
コーヒーの原産国であるアフリカのエチオピアでは今でもコーヒーセレモニーと呼ばれる儀式があり、感覚的に日本の茶の湯に近く、もてなしや文化的な意味合いが強いらしい。
つまり宗教的な儀式としてコーヒーは未だに用いられているということだ。
スターバックスなどの登場によってコーヒーはよりカジュアルで親しみやすい存在として僕たちの生活に根を下ろしているけれど、その文化的な意味合いは未だに保たれていることがなんとなく感じられると思う。
非合理なサイクリングとコーヒー。共に極めて人間的な行為であるという点できっと似ているんだなという結論にしておこう。