ロードバイクが「乗り物」じゃなく「ライフスタイル」になっていた
ユニクロやナイキなど、数々の世界的ブランドの広告コピーを手がけ、いくつもの受賞歴があるクリエイティブ・ディレクターの廣澤康正さんは「自転車乗り」だ。それも筋金入りのクロモリ好き。特に、ヴィンテージの美しさと機能性をこよなく愛する。
若い頃はクルマに凝ったり、オートバイにハマってレースに出場していたりしたそうなので、根っからの乗り物好きなのかもしれない。それが1996年のある日、ふと訪れた自転車店のウィンドウに飾ってあったキャノンデールのMTBの美しさに見惚れ、購入したところから“沼”が始まる。
▲一番のお気に入り、ヴィンテージのデローザを塗装から完全リストアし、カンパニョーロコーラス11速を載せた。塗装時に剥がしたコロンバスSLのステッカーを自作して張り替える凝りよう
20年たち気がつけば、ロードに乗り換え、辞書を片手にヴィンテージバイクを海外オークションで落札し、自分で整備したりリストアに出したり。そして【クロマニアサイクリングクラブ】というクロモリライダー主体のクラブを主宰、青森でクロモリのライドイベントを開催し。
挙句に「仕事で会う人も、ちょっとでも興味がありそうなら『ロードバイク、いいっスよ。乗ってみない?』と仲間にすぐ引き入れようとします(笑)」と、クリエイティブ業界においてロードバイク熱を広げ続けているインフルエンサーのような存在になってしまった。
そんな廣澤さんが「自分の自転車熱と、奥さんの『海の近くでぼーっと暮らしたい』という願いを叶える場所として終のすみか的な場所を探して作った」という自宅、さっそく拝見してみようではないか。
▲廣澤康正さん。着ているTシャツは自転車乗りが蔵主の岡山の酒蔵「酒一筋」のもの。ここまで自転車!
クルマの来ない道✕海の近く=千葉・房総半島
▲空が広い!手前に転がるは廣澤さんを自転車の世界へ誘った最初に購入したMTB
「『住まい』っていうとインテリアのことだけになりがちだけど、『どこに住むか』っていうところから住まいは始まっているよね」と廣澤さん。
事務所は都心の広尾界隈、マンションは都心にほど近い神奈川の住宅地。クライアントやスタッフとの打ち合わせも渋谷など近辺が多く、事務所に置いてあるビンテージのボテッキアで移動する日々。かつてはクルマに気圧されながら走るのに違和感を感じたこともなく、休日はタマサイやアラサイなど平坦をゆるりと走って満足。乗るよりもむしろ自転車をいじるほうが好きだったそう。だが。
「それが何かも知らないで、仲間に誘われて『ツール・ド・おきなわ本島一周』に参加することになり、一日目の獲得標高が186kmで2280mもあると知って、慌ててそこから毎週末大垂水峠や風張峠に行くように・・・どんどんいろんなところを走るようになりましたね」
▲ビルの蓄熱がない千葉の夕暮れは冷えるので冬は薪ストーブ必須
▲秋に入ると冬に備えせっせと薪割にいそしむ。ヴィンテージバイクにも発揮されているギア好き・整頓好きがここでも活きる
自転車乗りにとっては周囲の道がどれだけ走りやすいかが一番大事。地価とか財産とか住みやすさとかとは、まったく別の基準がそこにある。激しく同意。
このところ金曜日の夜、車もしくはバスで移動。アクアラインを経て、千葉の家へ。月曜日は打ち合わせなどを入れないように調整し、リモートで仕事。月曜夜か火曜に都心に戻るという二拠点居住を実践中。羨ましすぎる。
「いやいや。二拠点ってやはり費用がかかりますよ。工事費を節約したかったので、床板貼りやペンキ塗りは全部自分たちでDIYしました。千葉は人がいいのか工務店の人も親切で、自分たちの儲けにならないのに工具貸してくれたりして。元々自転車を自分で組んだりいじったりが好きだったから、DIYもその流れで楽しみました。ただ、家を作ってる間はさすがに自転車に乗る時間はごっそり減りましたね」
▲きっちり揃えられた道具類がまるでキッチンスタジオ。壁板のペンキやタイルも自分たちで
▲カップボードに自転車アイテム。マルコ・パンターニとエディ・メルクスのイラストがかわいいカップはイギリスの自転車誌『Rouleur』のもの
▲なんとこのステンドグラスも手作り。義兄が器用な人で、旧帝国ホテルなどの建築で知られるフランク・ロイド・ライトのデザインパターンを起こして製作してくれた
ここを拠点に自転車に乗るための部屋にした
▲このドアが「自転車専用ドア」。本来の玄関はずっと奥のテラス・デッキのあたりにある
さて、廣澤さんがこの千葉の家を作るにあたって絶対にこだわったという「自転車専用ドア」を拝見しよう。
「自転車乗って足もタイヤもドロドロになってるから、そのまますっと自室に持って入れたら最高じゃないですか。出る時もいちいち玄関まで運ばなくていいし」
▲確かにこれは便利。スロープを作るかは考え中
で、これが自転車専用ドアから入ったところにある廣澤さんの私室。さりげなくローラー台の上にあるのは・・・これ、トマジーニですよね?
「そうそう。これも気に入ってます。これはトマジーニに直接オーダーしたんですよ。現行車でイタリアンラグのロードが欲しくて探したら、トマジーニに行き着いて、色は大雑把に指定しただけなんですけど、ディティールまで綺麗に仕上げてくれました」
▲雨の日に乗れないとつまらないので窓の外を見ながら楽しめるようにトレーナーを設置
自転車乗りの家は、自転車との関わりそのものである
最初に紹介したリストアしたヴィンテージのデローザにしろ、このトマジーニにしろ、廣澤さんは「ヴィンテージだから、クロモリだから、オリジナルそのままじゃないと絶対ダメ」という考えはない。
「むしろ、“大事に床の間に飾っとかないで乗ろう派”です。でもヴィンテージバイクってそのままだとフロントが54−42Tでリアが8速しかなかったりしてギア比の幅が小さく、乗るのがしんどいじゃないですか。だったら今のコンポーネントが入るようにビルダーさんにリストアしてもらったりして、快適に走りたい」
その柔軟な考え方がこの家造りにも出ているのかもしれない。家は人なり。
「房総半島はサイクリストにもまだ知られてない道がたくさんある。朝早くチームの連中とここを出発して、こう、淡い光の中、誰一人いない道をロードバイクの音だけがする瞬間とか、たまらなく好きですね」
All photos by Kenta Yoshizawa