前編はこちら。
クルマと歩行者が同等の権利を持つ国こそ、成熟した国である。
– 新都知事となった舛添さんも、2020年の東京大会におけるヒートアイランド現象や交通需要対策として。また、超高齢化社会の到来から自転車のインフラの整備を検討しているようですが、佐々木さんは自転車と社会の関係性はどうなっていくべきとお考えでしょうか。
以前、TED※1でコロンビアの首都であるボコダの前市長エンリケ・ペニャロサが自転車専用道路を整備したという話をしていました。彼の言葉の中で非常に印象に残ったのが、「成長した国は、皆が高いクルマに乗っているのではなく、富裕層でも自転車に乗っている国である」ということです。
– 先進国の場合は、クルマが一種のステータスとなっているような気がしますが。
例えば“面積”で比べてみてください。クルマ一台が占める面積と自転車が一台が占める面積を比べると、圧倒的に違いますよね。ボゴタは以前、道路はずっとクルマで渋滞していて、路上駐車しているクルマは斜めに停めるなど、まさに無法地帯で目もあてられない状況あったようです。
このような悲惨な状況を変えるために、道路は二車線のうち一車線をバス専用レーンとし、路側帯もクルマが縦一列に停められるように整備したようです。そして車道から一段かさ上げして、歩道と自転車専用レーンまでをも設けました。
このようなインフラを富裕層が住むニュータウンだけでなく、旧市街、つまりスラムのような場所にも整備したのです。エンリケ曰く、「自転車こそが、民主主義の証だと。「クルマに乗っている人間と、歩行者が同等の権利を持っている国こそが、成熟した国だ」と語っているんです。
– 日本にはおそらく経済的には成熟した国と言えますが、実情としては・・・
そう。お気づきだと思いますが、日本は残念ながらクルマに乗っている人間の方が偉いという風潮が強いですね。郊外や田舎などに行くと顕著だと思うのですが、路側帯しかない場所をおばあちゃんがトコトコ歩いていて、その横をクルマが結構なスピードで通り過ぎている・・・それって本当に民主主義なのでしょうか。
※1 テクノロジー(T)、エンターティメント(E)、デザイン(D)を中心とした幅広く世界に広めるべきと思われるアイデアのプレゼンテーションの場を提供し、インターネットを通じてそのビデオ映像を世界に広める活動。
パラダイムシフトが起こり、クルマ離れは加速し、シェアの時代がやってきた。
– たしかに、地方では路側帯をお年寄りが歩いているのをよく見ますし、その時、社会の不平等さを痛感させられます。
もちろん、お金持ちとそうでない人の差、不平等が生まれるのは仕方はありませんが、少なくとも国や自治体が用意している“都市”という公共空間における一人ひとりが所有できるスペースというのは平等でなければいけないと思います。公共交通機関においてもクルマに乗る人間の方が空間占有率が高くなっていますし、やはりこれはおかしなことです。
お金を出して高い家、広い家に住むならわかりますが、道路上のスペースはその人の占有物でありません。このような不平等が起きていることは由々しき事態だと思います。
– こういう現象が起きている要因として、日本のこれまでの歩みが関係しているのでしょうか?
きっと、そこまで考えて都市設計をしてこなかったのでしょう。1990年までの成長社会では上手く回ってきたことがその後、上手く機能しなくなり、2000年前後を境にパラダイムシフトが起こりました。
“住まい”が典型的な例ですよね。戦後の焼け跡から立ち直った頃、居住環境は相変わらず劣悪でしたが、公的な家をつくるほど政府にも予算がなかった。そこで持ち家制が主流となり、みな、借金をしてまでも家を持つようになりました。
ただ、今の時代の場合、少子高齢化が進行し、不安が大きい中で35年ローンを組んで家を買うという行為は時代に合わなくなっています。モータリゼーションにおいてもそうです。高度経済成長期には、自分のクルマを買って移動の自由を与えたのはすごく重要だったけど、今は必要なくなった。
– おっしゃる通り、若者のクルマ離れは加速していますし、都心に住んでいればハッキリいって不要ですね。
クルマって1980年代までは、夢を実現するためのツールみたいなところがありましたね。その当時は家は狭くて海外から「ウサギ小屋」と揶揄されるぐらいでしたし、労働人口が多いこともあり会社の中にも人が寿司詰め状態でした。そんな時代の中で、クルマは唯一、一人になれる空間だったのです。
あと、いじめの構造と同じで、均質な空間に大量の人を詰め込むと同調圧力が強くなりますよね?そういう会社風土の中で、皆、どこかへ脱出したいという願望が強くなっていたのです。脱出したい欲求がクルマへの憧れへと転化していたのだと思います。
ただ、今の時代はそういう憧れはなく、都心に住んでいる人間にとっては金がかかるだけのモノになりました。そもそも、今の時代は自分が所属する場所がなかなか見つからない時代ですから、脱出したいという欲求も薄れ、不安定な圧力の方が強くなってきたのではないでしょうか。
クルマは孤独を、自転車はコミュニケーションを生み出す乗り物。
– シェアの意識が加速していますね、今の時代。
そう。自転車ってそういうシェアリングの文化に適合したツールなんじゃないでしょうか。たとえば、シェアハウスの入り口にみんなの自転車と一緒に自分の自転車も並んでいる・・・それを見て人と繋がっていることを実感したり。つまりは、そういうことだと思うんです。
– 確かに自転車は誰かにとってのメディア、つまり媒介の役割を果たすモノだと感じます。
孤独になる装置がクルマだとしたら、自転車はコミュニケーションのための装置と言えるのではないでしょうか。1950年代に流行した日本映画で「青い山脈」という映画あります。これは戦後の焼け跡の中で希望を見つめて生きていく青春映画なんですが、その冒頭のシーンで主人公の高校生たちが仲間とサイクリングしているというシーンがありました。この当時から、自転車は誰かとつるんで走る装置として機能していたようです。
ただ、この道路状況では誰かと一緒に走るというのは難しい。ですから、せめて専用道路をつくるだけでも変わるんじゃないかなと。オリンピックも来ることですし、両側車線につくって交互通行をなくすだけでも劇的に変わるのではないでしょうか。
– 昔は自転車に乗って駅へ行く、そこから電車に乗るというケースが多かったと思いますが、「Home?to?Station」ではなく、「Home?to?Office」のように、自転車通勤の文脈も変わればいいなと私どもは考えています。
行ける距離、現実的に可能な距離であれば自転車を使うってのはアリだと思います。ただ、例えば中野から大手町まで自転車で通勤する場合、基本大きな幹線道路を通らなければいけないので、「毎日走っていたら死ぬかもしれない」という恐怖は拭えないでしょう。
つまり、そこの部分、「自転車を日常的に使える環境」へと変えていかないと、何も変わらないんですよ。かと言って、あと30分で会社に行かなければいけないという時に裏通りを走っても遅刻しますし。
一定した時間で、一定したスピードで、かつ安全に疲れないで行けるという条件が整備されない限り、自転車通勤は増えないと思います。ただ、オリンピックの開催も決まったことですし、今こそ、本腰を入れて着手するチャンスではないかと僕は思いますね。
佐々木俊尚 Toshinao Sasaki
1961年兵庫県生まれ。早稲田大政経学部政治学科中退の後、毎日新聞社に入社。その後、月刊アスキー編集部を経て2003年に独立し、IT・メディア分野を中心に取材・執筆している。主な著書に、「レイヤー化する世界」(NHK出版新書)「『当事者』の時代」(光文社新書)「キュレーションの時代」(ちくま新書)「電子書籍の衝撃」(ディスカヴァー21)など多数。総務省情報通信白書編集委員。
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